AI翻訳の英文が「自然」でも安心できない理由

英文IRで見落とされやすい7つのリスク

生成AIや機械翻訳を使えば、英文開示の初稿は以前よりはるかに速く作れるようになりました。英文も一見すると自然です。だからこそ、いま注意したいのは「読める英語が出た=そのまま公開できる英語」と判断してしまうことです。

2025年4月以降、プライム市場の上場内国会社には、決算情報と適時開示情報について、日本語と同時に英語で開示することが原則として義務付けられています[1]。英文作成のスピードはこれまで以上に重要です。一方で、公開資料である以上、短時間でも品質を落とさない運用が必要です。

AIの「流暢さ」が、確認を難しくする

まず前提として、現在の機械翻訳もAI技術を利用しており、「機械翻訳」と「AI翻訳」を厳密に二分することはできません。本記事では便宜上、翻訳に特化した機械翻訳(MT)と、大規模言語モデルを使う生成AIを分けて説明します。近年の機械翻訳は大きく改善しており、単純に「文法ミスが多い」と一括りにするのは適切ではありません。一方、文書全体の文脈や専門分野の用語、一貫性などは依然として重要な課題です。金融分野の文書レベル翻訳を扱ったDOLFIN研究でも、文脈を考慮するモデルとそうでないモデルの差が確認され、金融テキストでは文脈を踏まえた翻訳評価が重要であることが示されています[5]。

生成AIには別の難しさもあります。NIST(米国国立標準技術研究所)は、生成AIが誤った内容を自信を持って提示する現象を「confabulation」として整理し、入力と異なる内容や事実と異なる出力、内部的に矛盾する出力が起こり得ると説明しています[4]。つまり、生成AIで英文がより自然になったとしても、「自然に読めること」と「原文・事実・企業固有ルールに照らして正しいこと」は別に確認する必要があります。

英文IRで見落とされやすい7つのリスク

以下の7つは、JPX・NIST・学術研究で確認できる一般的な論点に加え、One World Linkが英文IR、統合報告書、決算関連資料などの翻訳・校閲で繰り返し確認してきた実務上の観点を整理したものです。個別顧客の非公開情報や事例は使用していません。

1. 意味は近いのに、重要なニュアンスが変わる

AIは文脈上もっともらしい英文を作れますが、主語、因果関係、条件、時期、確実性などが微妙に変わることがあります。IRでは、例えば「目指す」「見込む」「計画する」「実施する」は同じ強さではありません。英文が自然でも、企業としてのコミットメントが原文より強く、または弱くなっていないかを確認する必要があります。

2. 数字が合っていても、財務用語や表の意味がずれる

IR資料では、数字そのものだけでなく、その数字が何を示すのかが重要です。金融・会計分野では、一般語と専門用語で意味が異なるケースや、文脈によって適切な訳語が変わるケースがあります。DOLFIN研究も、金融分野では文書レベルの文脈を踏まえた翻訳が重要であることを示しています[4]。One World Linkの実務でも、数字自体は合っていても、勘定科目、単位、年度、増減の向き、注記との対応などを原文・表・過去開示と照合して初めて気づく問題があります。

3. 会社固有の用語と過去開示が揺れる

参照すべき用語や過去訳が与えられていない場合、前年と今年、決算短信と統合報告書、本文と図表で訳語が揺れることがあります。英語として成立していても、正式な事業名、KPI、製品名、経営用語などは企業として統一されていることが重要です。JPXも英文資料の標準化と品質向上のため、開示項目や勘定科目等の日英対訳情報を提供しています[3]。AIに一般知識だけを求めるのではなく、「自社では何と呼んでいるか」という企業固有の英語資産を継続的に参照できる状態が必要です。

4. 原文より強い・弱い表現になる

生成AIは、自然な英文に整える過程で、断定を強めたり、逆に曖昧にしたりすることがあります。特に、将来見通し、目標、方針、株主還元、投資計画などでは、表現の強さそのものがメッセージです。文法上の正しさだけでは確認できません。

5. 一文ごとには正しくても、資料全体では整合しない

AI翻訳をページやファイル単位で進めると、同じ言葉が別の訳になったり、略語の初出が抜けたり、見出しと本文で用語が変わったりします。英文IRの品質は、一文単位ではなく、資料全体、さらに年度をまたいだ開示全体で見なければなりません。

6. 「自然な英語」と「投資家に読みやすい英語」は同じではない

生成AIは自然な英文を生成できる一方、指示や参照情報が十分でないと、日本語原文の情報順序や修飾関係を強く引き継いだ英文になることがあります。文法上は成立していても、結論が後ろに置かれる、主語や論理関係が曖昧なまま残る、一文に情報が詰まりすぎる、といった形です。これはOne World LinkのIR翻訳・校閲実務でも繰り返し確認する論点です。社長・CFOメッセージなどでは、意味が合っているだけでなく、読み手が一度で理解でき、企業のメッセージが明確に伝わることが重要です。

7. 最後に必要なのは「誰が品質を保証するのか」という設計

最も重要なのはここです。AIを使うこと自体が問題なのではありません。問題は、AI出力の後に「誰が」「何を根拠に」「どこまで」確認するかが決まっていないことです。用語集、過去訳、社内表記、原文、最終PDFを別々の場所で確認していると、品質管理が担当者の経験と注意力に依存しやすくなります。JPXの英文開示実践ハンドブックでも、英文開示を進めるうえで体制、人材、技術、Knowledgeの整備が重要な論点として扱われています[2]。

では、AIを使わない方がよいのか

いいえ。One World Linkでは、AIを使わないことが答えだとは考えていません。英文IRでは、初稿作成のスピード向上や繰り返し作業の削減など、AIが大きく貢献できる領域があります。

ただし、AIを導入すると「翻訳」という作業が消えるのではなく、仕事の重心が「生成」から「管理と判断」に移ります。どの過去訳を参照するのか、正式な用語は何か、原文と意味が一致しているか、数字と表記は正しいか、公開前に専門的な判断が必要か。こうした確認を毎回手作業で行えば、AIで短縮した時間の一部が後工程の確認や手戻りに戻ることもあります。

OWLBASEが目指しているのは、この「運用」を一つにつなぐこと

OWLBASEでは、企業ごとの翻訳メモリや用語、過去訳を参照しながらAI-assisted translationを進め、Word、Excel、PowerPointなどの資料を扱うことができます。また、必要に応じてOne World Linkのプロフェッショナル翻訳サポートへつなげることができます。

重要なのは、AIを人に置き換えることではありません。 AIが得意な処理、企業が蓄積してきた英語資産、そして専門家の判断を、一つの運用としてつなげることです。

まとめ

AI翻訳の品質は、出力された英文だけを見て判断することはできません。英文IRでは、意味、数字、用語、過去開示、表現の強さ、資料全体の整合性、読みやすさまで含めて確認する必要があります。

AIを使う企業が増えるほど、重要になるのは「どのAIを使うか」だけではありません。AIに何を参照させるのか、企業固有の英語資産をどう蓄積・更新するのか、そして、どの段階で専門家の判断を入れるのか。こうした運用設計が英文IRの品質と効率を左右します。

参考情報・出典

[1] JPX「TDnetによる英文開示」  リンク

[2] JPX「英文開示実践ハンドブック」  リンク

[3] JPX「日英対訳集」  リンク

[4] NIST, Artificial Intelligence Risk Management Framework: Generative Artificial Intelligence Profile (NIST AI 600-1)  リンク

[5] Nakhle et al. (2025), “DOLFIN – Document-Level Financial Test-Set for Machine Translation,” Findings of NAACL 2025  リンク

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